+清澄+
「―――お待たせ」 「うん」 あと2日も歩けば里に着く。 鬱蒼と木の生い茂った小高い丘を越えて、二人は再び歩き始めた。 決して危険ではなかったが、どうしても時間のかかる任務だった。 二人とも泥まみれ埃まみれで、真っ黒である。 20日間ほどに及ぶ潜入捜査が無事に終わり、鬼火の里へ戻る途中だった。 「目当ての薬草は見つかったのか?」 「うん、ほら。思ったより少なくて残念だったけど」 「そうか」 と、数歩前を歩いていた青年が、突然その歩みを止めた。 何かを気にするように視線を泳がせていたかと思うと、 徐に自らの衣服に顔を寄せる。 眉間の皺を増やして、今度はくるりとこちらを向くと、突如、 佐久弥の胸元から肩口にかけて顔を寄せた。 「どうしたの?」 少し驚いて佐久弥が尋ねると、蒼い青年は鼻をひくりと動かし、 秀麗な顔を思い切りしかめる。 「…臭う」 「え?」 かくりと首をかしげながら、佐久弥はそれでも一応 自らの腕を引き寄せて比奈伎と同じようにくんくんと鼻を動かす。 「…そうかな」 良く分からないけど、と更に首をかしげる相手に更に顔を寄せて、 比奈伎はふんふんと嗅ぎ、むぅと口を曲げた。 「お前は任務に出ると、そういう一般的な感覚は封じるからな…  結構、臭うぞ」 「そっか」 「確か、水辺があったよな」 「うん、少し上ったところだけど」 別段、我慢出来ないほどの臭いではなかった。 だがどうせ水辺があるのなら寄って行かないという手は無い。 急遽、少しだけ帰り道を逸れて、 軽く水浴びをして汗を流していく事に決定した。 小半時ほども急な斜面を登りきると、そこには急に開けた土地があり その奥に清んだ水を湛えた水辺があった。 森の中から湧き出たような造りの泉は、 滾々と湧き出る地下水によって成り立っているようだ。 佐久弥は篭手を取って手袋を外し、 掌でその冷たい水を掬い口に宛がうと、ほんの少しだけ口に含む。 ぺろりと舌で掬うようにして数滴を飲み込み、異常が無い事を確かめた。 それから、改めて水を掬い上げて喉を潤す。 その後ろでは比奈伎が布でくるんだ荷物を降ろし、 埃まみれになった上着を傍の木の枝にかけている。 そして佐久弥を見た。佐久弥はその視線を受けて、一つ頷く。 比奈伎は荷物の中から竹筒を取り出して、佐久弥へと放った。 自分のものと比奈伎のもの、 両方を手にして佐久弥はその水を竹筒へと汲み入れる。 せっかく綺麗で美味しい水なので、もちろん、 中に入っていた古いものは地面へと撒き散らしてから汲み入れた。 「美味いな」 隣に来て、佐久弥と同じように直接掌で水を掬い、 喉を潤した比奈伎が感心したように言う。 「そうだね」 袖が濡れるのもお構いなしで、 嬉しそうに水を掬っている比奈伎に、佐久弥は小さな微笑みをこぼす。 顔を洗い、二人でしばらく喉を湿らせた後、 佐久弥に言われて比奈伎は防具を外し、 着物を脱ぎ、更には下帯も外してしまう。 一糸纏わぬ姿になって、ぱんぱんと着物から埃をはたき、 枝に引っ掛けていく。 下帯だけは洗濯するべきか否か少し悩んで、空を見上げ、 それが乾くほどここには居ないだろう事を考えて、洗濯は諦める事にした。 一糸どころか武器一つ警乗しないという状態で、比奈伎は水に足をつける。 「気持ち良いぞ」 心なしか幾分高揚した声音で比奈伎はその冷たい水に身体を沈めた。 両腕で水を掬い、顔を洗い髪の毛を撫でつける。 水に濡れた事で埃まみれでぱさぱさと乾燥していた髪の毛が、 艶々と青黒く光を弾いた。 「佐久弥、お前も浸かれば良いのに」 「うん、後でそうするよ」 顎まで水に浸かった状態で、比奈伎はこちらに声をかける。 そんな様子がまるで子どものようで、 佐久弥は微笑を浮かべて比奈伎に応えた。 うん、と頷いて比奈伎はすいすいと中ごろまで泳いでいく。 一部浅くなっている部分があり、 立ってみると、比奈伎の腰の高さに水嵩がきた。 「ここからさっきの丘に上がれるんだな」 視線の先に、迫り出した岸辺が映る。 比奈伎はその場に立って無駄なく鍛えられた細身の上半身を日に晒し、 先に見えるであろう丘の方へと視線をやったまま、佐久弥へ声をかけた。 「佐久弥。顔が怖いぞ」 そう言ってから、佐久弥を振り向く。 佐久弥はそれに応えず、無言のままただじっと比奈伎を見つめている ―――否、比奈伎のほんの僅か後方を見つめている。 「…物好きが居るみたいだな」 そう呟くと、比奈伎は意識だけを後方へと向けた。 「物好きなんてあんまりだわ」 佐久弥から見て、ちょうど比奈伎の陰になる位置。 「男の水浴びを覗くのは、物好きじゃないのか」 「あら…アンタみたいな綺麗な男なら、一見の価値はあるわよ」 いつの間にか比奈伎の真後ろに一人の女が立っていた。 女は、腰に薄い布を巻きつけただけの姿でそこに立っている。 布は水を吸って重たくなり、ぴたりと身体に張り付いて、 かえってその身体の線を強調しており、 濡れた事で僅かに模様が肌の色に透けて見え、 女の艶めかしさを際立たせている。 風に乗ってほんの僅かに、甘く気だるいような匂いが辺りを取り巻いていた。 「本当に綺麗ねぇ…黒い髪が水を含んでキラキラしてる…  アンタみたいな良い男、初めてだわ。  それに、あっちの岸に立ってる子もね…女の子かと思うくらい。可愛いわ」 女はまるで歌うように呟いて比奈伎に歩を進めた。 そして、比奈伎のその姿を改めて見やり、小さく苦笑する。 「あら…呆れた無防備さねぇ…見たところ、下帯もしてないじゃないの」 「…」 「ま、アタシにはその方がちょうど良いけど…?」 ふわりと腕を差し出して、女は比奈伎に触れる。 とんとんと軽く突くようにして、比奈伎の肩に、腕に、 胸に、腹部に、そして水面下の比奈伎自身にまで手を伸ばす。 そこまで触れても全く避けようとしない比奈伎に女は少し調子に乗ったのか、 ずいっと身を乗り出して更に比奈伎に近づき、 今度は両手で比奈伎の頬を包んだ。 頭一つ以上の高さにある比奈伎の瞳を、じっと見つめる。 「綺麗…深い深い闇の色ね。この目が欲情に濡れる所が見たいわ…  どんな色になるのかしら」 しなを作り、あだっぽくそう言いながら、女は比奈伎の腕を取る。 比奈伎はまるで無防備な様子で腕を相手に任せたままだ。 女はその腕を舐めるように撫でさすり、 直に口付け、そして徐ろに自分の胸元へと導く。 自らの胸へその豊かさを確かめるように そのたわわな膨らみを比奈伎の掌に宛がった。 そして比奈伎の掌ごと揉みしだくように動かす。 比奈伎の手は大きい方ではないが決して小さくも無い。 細く長い指は繊細で、それでいて武器を握るための しっかりとした強さも併せ持っている。 その掌から零れ落ちそうなほどの豊かな乳房を揺らし、 女はほうっと溜息をついた。 「あ、ん…アンタ、綺麗な手をしてるわねぇ…ふふ、  アタシの胸、揉み甲斐があるでしょう? ねぇ…」 言いながら比奈伎の長い指先を口に含み、徐に舌で撫で上げた。 ぴちゃぴちゃと音がするほどに舐めあげて、指を咥えて甘咬みをする。 そして逆の手は、己の身体の線を撫でるように押し付けつつ、 腹部を越え、更に下へと導いていった。 「ね、…アタシ、もう濡れてきたわ…触ってちょうだい…」 女がとろんと胡乱な眼差しで比奈伎を見つめ、腰布をまくり、 比奈伎のその手を下腹部の更に下、自らの女の部分に押し当てようとした、 その時。 「―――嫌だ」 そこで初めて比奈伎は声を発した。 明らかな嫌悪を顔に乗せ、自らの手を取り返す。 あられもなく豊かな胸を露にした女を前にして、 更にはそれだけ挑発をされて、比奈伎の表情は冷めたままだ。 その目には女への性欲はもちろん、一切の迷いも無い。 眉間に皺を寄せ明らかに嫌がっている風にしか見えなかった。 「…据え膳って知ってる?」 「知ってる」 やや呆れたような女の声音に、比奈伎は真面目に答える。 「だから、待った」 「…え?」 今度は、女が尋ねる番だった。 「それ、どういう意味?」 それに比奈伎は応えず、僅かに首を動かす仕草だけで、岸辺を示す。 水に触れるか触れないかギリギリの位置で、 真っ直ぐに佐久弥がこちらを見据えて立っている。 その直ぐ後ろに。 「仲間だろう」 鋭く、やや変わった形状の武器を構えた男が立っていた。 その武器の切っ先は、間違いなく佐久弥を狙っている。 「理由は知らないが、男の方は到着が遅れたんだな。  お前は男が着くまでの時間稼ぎをしていた」 「…気づいてたの」 黙って僅かに俯いたままの比奈伎に、女はいっそ優しげに笑いかける。 「まァ良い。気づいてたなら話は早いわね。  岸辺のもう一人のあの綺麗な子を傷つけられたくなければ、  大人しく岸に上がってもらおうかしら」 「…」 比奈伎はそれに言葉では応えずくるりと向きを変えると 黙って岸辺に向かって泳ぎ始める。 それを見た女は実に満足そうに、自らも岸辺へと向かった。 比奈伎の後を追いながら、女は口元に微笑を浮かべ何かを呟く。 比奈伎は聞こえない振りをしながら、そのまま岸辺へと向かった。 「来たな」 「遅かったじゃないのさ」 「コイツを手に入れるのに時間がかかってな―――」 言いながら男は、小さな包みを懐から取り出す仕草を見せる。 「ああ、それ、手に入ったのね」 嬉しそうに反応する女は、隙無く比奈伎の真後ろを陣取り、 やはりその胸を露にしたままどこに隠していたのか短剣を比奈伎の背に宛がう。 そしてそのまま比奈伎を、佐久弥から少し離れた所へと歩かせた。 比奈伎は全裸で俯いたまま、言われるままに歩いていく。 女は佐久弥と比奈伎の風上に立つと、男に一つ頷いた。 男はそれに頷きを返し、やや体の位置を移動させやはり風上に立つ。 そして、無防備な様子で黙って立っている佐久弥の首筋に切っ先を宛がい、 じろりと比奈伎に視線を飛ばした。 「妙な真似をすると、コイツを切るぜ」 佐久弥の喉もとに武器を宛がった男のその口調は、確実に勝利を確信していた。 だが、比奈伎は相変わらず無表情のまま、少しだけ眉を顰める。 「それはないだろう」 「何?」 「そうなる前にお前が死ぬ」 「な―――」 何だと、と最後まで言葉を綴る事は不可能だった。 辛うじて気配を悟り、後ろを振り向こうとしたその体勢のまま、 男は絶命したからである。 男が比奈伎に話しかけ、比奈伎がそれに答え、男が瞬きをしたその瞬間、 佐久弥は男の真後ろに移動し一閃を振るったのだ。 首と胴体が切り離され、驚いた表情のままの男の首が、女の足元を転がった。 「…やるわね」 正直、ここまでの使い手だとは思っていなかったのだろう。 女の顔は蒼白になっている。 剣筋は、全く見えなかった。 そもそも女には、この細い青年が いつ男の後ろに回ったのかすら見えていなかった。 それに驚いたのは男の方が上だろう。 瞬きの瞬間まで自らの間合いにいた、 まるで少女のような儚げな美しい青年が、目の前から消えたのだ。 消えた、そう意識できた瞬間には、 男の命は既にこの地上から斬り離されていた。 一陣の風がざわり、と木々を揺らす。 その瞬間女は素早く腰巻の後ろから何かを取り出し、 油紙に包まれた粉薬を風に撒き散らした。 先ほど比奈伎が泉で感じた、甘く気だるい匂いが辺りを一瞬で取り巻く。 佐久弥は呼吸を止め、手で口と鼻を塞いだ。 だが、比奈伎はそのままぼうっとした様子で立っているだけだ。 佐久弥は無言のまま視線で比奈伎を伺う。 比奈伎はただ静かに呼吸を繰り返している。 「この薬は強力でね…、この蒼い髪の坊やは泉で既にこの薬の虜なのよ」 女は軽く笑いながら、薬の包みを投げ捨てた。 自分は薬を吸わないように注意し、立ち尽くす比奈伎に近づく。 そして、ゆっくりと比奈伎の頬へ手を伸ばした。 「二度目は無い」 「え?」 薬―――、一種の媚薬と呼ばれる種類の物だ――― で、骨抜きになっているはずだった青年が、 思いの他きっぱりとした口調で自分を拒絶した事に対し、 思わず聞き返した女は、何か違和感を感じた。 ばさり、と音がして何かが足元に広がる。 女は驚愕した。 足元を埋め尽くしたもの、その正体は。 それは、まとめ上げていた自らの髪だったからである。 思わず自分の頭に触れ、みっともなく短くなってしまった髪に触れた時、 比奈伎の手に先ほど自分が握っていたはずの短剣が握られているのが見えた。 いつ奪われたのか、全く気づけなかった。 「…全く薬が効いてないのね」 「慣らしてあるからな」 「こんな強い薬に慣らしてあるなんて、どんな慣らし方なのよ…」 仕掛けた本人である自分ですら、 風上にいるというのに僅かな薬の効果に流されそうになり、 仕事上での色仕掛けだというのに本気で濡らしたのだ。 「信じられないわね」 未だに体の奥で燻り続けている残り火を、女は隠し通すことが出来ない。 どことなく上ずったままの声音で、言葉を綴っている。 「慣れない物は使うものじゃないね」 薬を吸わないように呼吸を止めていたと思われた佐久弥が、 平然と薬の中で口をきいた。 その冷たい佐久弥の言葉に、女はちっと口汚く舌打ちをする。 そして真っ直ぐに比奈伎を指差した。 「薬はともかく、アタシの身体に触れてそれでも勃起しないなんて、  アンタ、男としての機能が死んでるんじゃないの?」 自らの美しさと手管に余程自信があったのだろう、 顔色一つ変えない比奈伎に自尊心が大いに傷つけられたようであった。 今までの優しげな口調をがらりと変えて思い切り軽蔑の意を込めて、 女は吐き出す。 「そういう自覚は無いが」 それに対して比奈伎はこちらは思い切り真面目な顔で切り替えした。 女に対してあまりにも無防備だった比奈伎の様子に 内心で少しだけひやりとしていた佐久弥は、 そこで初めて自らに纏った鋭い気配を拭い去る。 「…別に比奈伎は無能じゃないよ?」 「っ!? おっ、お前が言うなっ」 その言葉に心底驚いたように、 比奈伎はそれこそ文字通り飛び上がって佐久弥に向き直る。 今までの淡々とした表情が嘘のように、勢い良く、その頬に朱を上らせた。 そんな比奈伎にくすくすと笑って、佐久弥は真っ直ぐに女を見据えた。 「…まだ、やるつもり?」 女は、悔しさから、どうにかして目の前の獲物の油断を誘い、 一矢でも報いる事が出来ればとずっと策略を巡らせていた。 だが女は何もせず無言で立ち去った。 ちょうど真横に立っていた比奈伎には見えなかった。 その佐久弥の薄い色彩の瞳には、その視線だけで 相手を射殺せそうなほどの静かで鋭い殺気が込められていた。 この、一見少女めいた美しさを持つ青年には、 自分程度の力量ではそれこそ髪の毛一筋すら傷つける事は出来ない。 それを悟る程度には、女はそこそこの力を持っていたと言えるだろう。 蒼い髪の青年は、裸のまま自らの腕を持ち上げて ふんふんとまるで犬かなにかのように匂いをかいでいる。 ここに来る原因となったその仕草に、佐久弥は首をかしげた。 「今度は、薬臭いな」 せっかく泥と埃を流したのに台無しだ、と、 比奈伎は今度は完全に水に浸かる事はしないまま、 岸辺の近くで腰まで沈めて腕をその水で洗い流し始めた。 「あの女、結局何が目的だったんだ?」 「そうだね」 佐久弥は僅かに考える節を見せたが、 実は比奈伎と女がまだ泉の中にいた間に、男の方が佐久弥に目的を告げていた。 男は、自らが口にした通り、薬を手に入れることが目的だった。 情報通り、薬を持ったものがこの泉に来ると聞いていた。 その二人をずっと追ってきて、途中で、 白い方の青年が何かをやっているのを目撃した。 後を追うのは女に任せ、どうせ丘の上から狙いを定めているのだからと、 その青年が何かをしていた場所を探る。 すると、自らが求めていた薬が一袋、 大事そうに布に包まれて埋め込まれていたのだ。 これは、ヤツラの受け渡し方法に違いない。 良く見れば、白い青年は懐から一包みしかこの薬を出さなかった。 こうやって道の途中に埋め、何かを合図に、何処かの一族か、 もしくは武士か、大名辺りがそれを引き取りに来るのだろう。 ならば、青年の持っている薬を全て奪ってしまおう。 ヤツラの取引を全てぶち壊し、 今度はこちらにその取引の相手を引き受けさせようではないか――― 男は瞬時にそれを考えたのだ。 佐久弥からすれば馬鹿な考えだろうが、 男の目には、比奈伎と佐久弥の二人連れは、 何の力も持たない子どもにしか見えなかった。 何処か頼りない風情の二十歳までいくかどうかの蒼い髪の青年と、 貧弱でか弱そうな使い走りの十代の子ども。 どう目を凝らしても、そのようにしか映らなかったのである。 それこそが、佐久弥の狙いのまま。 鬼火一族に歳若い者が多いのは、 見た目からの警戒を少しでも減らすためでもある。 案の定、成人した比奈伎の事はともかく、 自分の事は完全に彼らの警戒から逸れていた。 そして。 佐久弥の立てた計画のままに、男は薬に気を取られ佐久弥に討たれ。 丘から佐久弥を狙っていたはずの男は、 その以前に一瞬だけ別行動をした佐久弥に既に斬られており。 女は、自らが動いたせいでその死を早めた。 抜かりなく男の手から薬を返してもらい、佐久弥は刀の血を拭う。 任務は完了した。 動いている忍の一族も分かり、更には、自らの強さを知らしめた。 これで相手の一族は動きを鈍くするだろう。 更に言えば、先日まで比奈伎と行なっていた潜入捜査も功を奏し、 忍一族の動揺は、やがてそれを使う大名に伝わり、 戦を仕掛けることを確実に躊躇うだろう。 今回の一番の目的は、攻め入る時期を少し遅らせる事にあった。 躊躇いを抱かせる事さえできたなら、それで任務は完了する。 完全に戦をする気を奪ってはいけない、戦は行われるべきであり、 だが、ただ、少しばかり時期が早い――― それが、鬼火一族を今回の任務に当てた、主・斉彬の言い分であったからだ。 これで、主もご満悦だろう。 僅かばかり皮肉気に、佐久弥は内心で思う。 主の狙いは分かっている。 もうじき、雨季がやってくる。 雨の多い時期に鉄砲は戦にてほとんど役に立たない。 軍を構えていた今回の大名は、鉄砲での戦いを得手としていた。 それを潰す作戦に出たのであろう。 どのみち、また本格的に戦が始まれば、自分たちも参戦する事になる。 それまではしばらくのんびり出来るのならば、 戦の時期が伸びるのも悪い事ではない。 佐久弥は、少し神妙な顔つきで先ほどの比奈伎の質問に答える。 「本当に、比奈伎を誘惑したかったんじゃない?」 「…冗談にしてもきついぞそれは…」 苦虫を噛み潰したような表情で、ぼそりと呟く。 その比奈伎に佐久弥は小さく頷いた。 「比奈伎の好みとはかけ離れていたものね」 「うん」 「比奈伎は、あんなに胸が大きくない方が好みなんだよね」 「うん」 「手足が長くて、背も高くて、これで髪が短くて、  切れ長の瞳だったら良かったのにね」 「…う?」 そこまであまりにも具体的に並べられ、さすがの比奈伎も 腕を洗うのをやめてじっと佐久弥を見つめる。 「…何でお前が俺の好み云々を…」 そう言いながらもだんだんと真っ赤になる比奈伎の顔に 佐久弥は柔らかく笑いながら、 さすがにもう水浴びそのものは諦める事にして、自らも腕を洗い始めた。 「大丈夫だよ、比奈伎」 「な、何が」 比奈伎の迷惑にはならないから。 「比奈伎は、そのまま、あの人を好きでいれば良いんだよ」 腕を洗いながら紡がれたその言葉に比奈伎はぴたりと動きを止め、 じっと佐久弥を見つめた。 佐久弥は、その視線を受け止めて静かに見つめ返す。 しばらく無言で互いに見つめあった後、徐に比奈伎が口を開いた。 「俺は、…お前は、似合いだと思うが」 「え?」 佐久弥は、一瞬その意味が分からなかった。 だが、続きの言葉を綴ろうとしどろもどろになっている比奈伎を見て、 ああ、と理解する。 「いや、だから、…その」 「…ありがとう」 優しく笑って、佐久弥は比奈伎の目を見た。 その目は、佐久弥にとって、目の前の泉よりも清んでいる。 その目に。 一人の女性を重ね視た。 目の前の青年と良く似た、だがこちらは 幾分か強い確かな光を持つ蒼いきらめき。 朱く短い髪の毛を鬣のように翻らせて、勇ましく戦場に起つ、戦神。 ―――朱音。 今、比奈伎の脳裏に、優しく暖かな微笑を浮かべた様子が 思い浮かべられているのであろう、一人の女性。 佐久弥は、微笑んだ。 大丈夫だから。 比奈伎の迷惑にはならないように、…好きになるから。 確かに私にとって朱音は特別な存在。 女性として、唯一個人体で視界の中にいる人物。 自らの中で大きな位置を占めている存在。 …でもだからと言って別に、異性として意識して、 所帯を持ちたいとか、彼女と懇ろな中になりたいと思うわけじゃない。 確かに、愛しているけれど。 …その想いの向かう先は、朱音だけではなく。 目の前の、さらさらした黒い髪と、涼やかな蒼い瞳をじっと見つめる。 この手で、直に抱きしめたいと感じるのは、一人だけ。 ずっと傍にいて、時折触れたいと感じるのは、…一人だけ。 私を見せたいと想うのは、一人だけ。 それは今、私を真っ直ぐに見つめ返してくれる、この蒼い瞳の持ち主なのだ。 …好きだよ、比奈伎。 一族と言うものが存在していなかったら、 そこに朱音という女性が存在していなかったら、 私は、もしかしたら比奈伎のためだけに生きたかもしれない。 自分でも分からない。 何故、こんなに比奈伎が気になるのか。 比奈伎が不安定な時は、支えたい。 私が支えなければと、思わず懸命になってしまう。 任務で遠く離れているときも、どうしているか気がかりで、 早く帰らなくてはと思う。 帰ってきて、寝不足のその顔に呆れながらも、出迎えてくれる事に安心する。 傍で見ているから、ここで眠って欲しいと思う。 その寝顔を見ていると、こちらまで安堵の気持ちで満たされてくる。 私が任務に立つときに見送ってくれるその瞳が切なく嬉しい。 一緒に居られると、この手の届く所に居てくれると、 安心して、穏やかな気持ちになれる。 本来ならば、一族の誰でも良い、それこそ一族以外だったとしても 比奈伎と共に生きる人間がいるのであれば、 その者と生きていけば良いと思っている。 そう、思っているのは確かに事実なのに、 そのためには、自分は必要以上に 関わりを持ってはいけないと思っているのに――― 「佐久弥」 名を呼ばれるたびに、その視線に見つめられるたびに、 それに応えたいと感じている自分が、自分の中には確かに存在していて。 もっと。 もっと、呼んで欲しい。 もっと、見つめて欲しい。 もっと、触れて欲しい――― 身体の奥底から、そう叫んでしまいそうな自分が居て――― そして。 あまりに近くに感じすぎて、 その蒼い瞳に、何もかも見透かされそうになる――― 「…それは、少し困るんだけれどね」 「え?」 「ううん…こっちの話」 「?」 …比奈伎は、決して鋭い方ではない。 むしろ鈍い、鈍過ぎる、と、何処かの気の良い青年は良くぼやいている。 そんな比奈伎に、時々、どきりとさせられてしまう。 ふと視線を感じると、比奈伎がじっとこちらを見つめている。 それはまるで、何もかもを透かして見ているかのような、済んだ眼差し――― …いつからだろう。 いつから、こんな風に。 「…どうして、分かってしまうのかな」 「??」 怪訝そうに眉を寄せる比奈伎のその表情があまりにも無防備で、 佐久弥は思わず笑いを零した。 笑うな、と比奈伎は顔を真っ赤にして佐久弥を咎める。 比奈伎と佐久弥が去ったその水辺から、半時も歩かない場所で。 一人の女が息絶えていた。 その女の頚椎には、良く見ると細く小さな針が差し込まれていた。 踵を返したその時、佐久弥が一瞬でその女の首筋に埋め込んだのである。 その所業は、刺された女本人はもちろん、 傍にいた比奈伎にも気づかせないほどの、一瞬の技だった。 女はしばらくの間自らが刺された事に気づかず、 少しでも佐久弥たちから離れるために走り―――その振動で、 ほんのわずかばかりに急所を外して刺さっていた針が、 女の急所に届いてしまったのだ。 無論―――そうなる事を予想してやったのだという事は確実だった。 そして、その女から更に泉に近づいた所―――二人も越えた丘に、 直接佐久弥や比奈伎と会話した男とは別の男の遺体が転がっていたのである。 佐久弥にしてみれば、女が比奈伎の後ろに現れるその前に その命を斬るつもりでいたのだが、 ほんの僅かそれを行動に移すには間合いが遠すぎた事と、 姿を現した男とは別のもう一人の男が、遥か丘の上から 何かの飛び道具で自分を狙っていた事に気づき、動くのをやめたのだ。 弓矢でもなく、鉄砲でもない飛び道具。 そして、女の使用していた媚薬。 男が手にしていた変わった形状の武器。 間違いなく、忍の連中だった。 今回の、比奈伎と佐久弥の任務――― それは20日間ほどをかけての潜入捜査だったのだが、 実はその裏にはもう一つの任務が隠されていた。 それは、潜入した先にて忍が動いているか否かを探るものだった。 一概に「忍」と言っても、それは実際には何種類もの里が存在し、 彼らはそれぞれに独立した組織にて成り立っている。 今回の任務での本当の捜査は、 何処の忍が動いているかを探るためでもあったのだ。 それは、実は比奈伎には知らされては居ない。 佐久弥だけに、朱音から極秘に伝えられた事だった。 その忍を誘い出すために、佐久弥はあるものを携帯し任務に出かけた。 それが、男が「手に入れた」と言っていた、薬だったのである。 潜入捜査を続けながら、佐久弥はそれとなく忍連中へ届くように、 自らがその薬を持っているのだという事を、見せ付けていたのである。 案の定、忍はその薬に飛びついた。 無味無臭、ほんの一匙で相手の心の臓を停止させてしまう薬。 忍も、職業柄こういった薬には事欠かなかったが、中には 自らの一族の持ち得ない薬を、 何としてでも手に入れたいと思う一族も居るのである。 今回動いている忍一族は、そういう一族である線が強いとの事で、 佐久弥は自らの囮役を買って出たのだ。 そして。 本当は、寿々加と組んで任務に出るはずだった。 それがどういう悪戯なのか、 主から寿々加に直々に任命が入ってしまったのである。 当時、動けて、更にある程度薬を使う忍ともやり合い慣れているのが、 目の前で濡れた肌を布で拭いている、蒼い青年だった。 佐久弥は本当は比奈伎と任務に出る事を良しとはしなかった。 朱音もそんな佐久弥の心情を分かっていたようで、任務の日にちをずらすか、 他の者に行ってもらうか、と、手を考えていた。 が、これもどういう事なのか、今回の任務にこの二人で出るように、と、 主直々に命が下ったのである。 「…あまり進まないけれど」 「分かってるさ。だが…主命とあらば仕方ない」 結局佐久弥は、比奈伎と二人で任務に出る事になった。 この事で主への疑いを、更に強くした事は否めない。 思えば佐久弥にとってかなり以前から主には色々と思うところがあるのだが、 その話はまた本編の方に組み込むとしよう。 任務に出た佐久弥は、 「本当の」任務の方に比奈伎を関わらせるつもりは無かった。 だが、相手は腐っても忍である。 思わぬ手練れが出てこないとは限らない。 絶対に目を離せない。 そう考えて、佐久弥は、ふと疑問符を頭に浮かべた。 …何故。 何故、こんなにも強くそう思うのだろうか。 もし組んだ相手が、そう、当初の予定通り寿々加だったならば。 きっと、自分はこんなにも―――相棒の動向に気を張る事は無いだろう。 「…本当に、どうしてだろうね」 「佐久弥?」 真っ直ぐに自分を見つめるその蒼い眼差し。 穢したくない。 比奈伎はとうに人の死も知っており、 自らのその手で子どもの命すら奪った事もある。 だが、それでも。 特に、…この、自分が傍にいる時には絶対に。 どうしてなのか。 そんな事は佐久弥にも良く分かっていない。 ただ、漠然とそう、自分が想うだけ。 守りたい。 一族だからだけじゃなく。 …きっと、比奈伎、だから。 例えそれが比奈伎に気づかれない事だとしても――― 「大丈夫か?」 「―――…」 そっと気遣わしげに頬に触れる比奈伎の掌。 それがあまりに優しく暖かくて、思わず佐久弥はその手に縋りたくなる。 だが、いけない。 「…比奈伎は、…どうしてあの女の人を最初から避けなかったの?」 「え?」 突然話を替えた佐久弥に、ああ、そんな事か、と比奈伎は頷いた。 「あの泉の奥から、丘へ登れる道があった。  その先に、殺気が残っていたからな。  女は、一人で来たわけじゃない。何のためかは分からないが、  少なくとも狙いは俺ではなく、佐久弥なんじゃないかと思って。  狙いを探った方が良いかと思ったし―――」 それで、と更に話を続けながら、 やっと思い出したように着物を身に着け始める。 「丘の方はもう生きている気配は感じなかったからな。  現れるなら、岸辺の方だと思って。  俺が抵抗しなければ、お前のところに行くかなと」 「どうして?」 「お前の方が力が無さそうに見えるからじゃないか?」 自分で言った事にあまり自信がないせいなのか、 比奈伎は自分の意見を疑問系で綴る。 「お前なら大丈夫だと思ってたし、それに」 「それに?」 「女が俺を甘く見ているなら、俺が佐久弥を守れたからな」 「…」 黙ってしまった佐久弥に、何故か急に焦ったように言葉を続ける。 「ぅっ、『私を守ろうなんておこがましい』とか言うなよ?」 「何それ?」 その顰め面に思わず笑いながら聞き返した佐久弥に、 比奈伎はもう一度「笑うな」と口をへの字にする。 「前に言われたんだ、寿々加に。誰かを守る前に自分を守れと怒られた…」 「あぁ…」 「…頷くなよ」 「ごめんごめん」 むぅ、と更に口をへの字にして、比奈伎は拗ね始めた。 「…それで、我慢したの?」 本来ならば比奈伎は、少しでも誰かに触れられる事を拒む。 相手が男でも女でも然り、だ。 触れようとすれば確実に避け、 無理矢理の場合は力任せにそれを拒絶する事もある。 それはともすれば仲間内でも言える事で、いきなり誰かが 触れたりする事に未だに警戒のようなものを抱いていた。 触られる、その行為に恐怖に近い感情を抱いているのである。 その比奈伎が、あの女に好きにさせていた。 それを遠くから見守る佐久弥のその心情は計り知れない。 女に対して怒りを越えた静かな殺気を抱きながらも、 迂闊に手出しできなかった本来の任務の意味を思うと、 益々主への猜疑心が湧いてきてしまうのは仕方のない事だと言えるだろう。 だが、そんな佐久弥に比奈伎はたった一言、守るためだと言う。 本当に、たったそれだけのために、触れられる事に耐えていたのだ。 そう思うと、自分のせいで危険な目にあわせただけではなく、 余計な我慢さえさせてしまっていたのだと、佐久弥はひどく落ち込んでしまう。 そんな佐久弥の思いを知ってか知らずか、 比奈伎は着替え終わり、真っ直ぐに佐久弥を見据えた。 「…お前が強いのはわかってる」 「え?」 「それでも」 岸辺へと向かった比奈伎に、 聞こえないと思っていたのかいないのか女は呟いた。 それは、はっきりとは聞こえなかったが、 佐久弥に薬を使って我が物にしようといったような、 女の佐久弥への欲望が表された言葉だった。 比奈伎には、それが何よりも許せなかったのだ。 「お前を守りたかったんだ」 「…」 「あの手を、お前に触れさせたくなかった」 眉を寄せて苦々しく呟く比奈伎は、 その女の手を自らに触れさせていたという事実は どこかに置いてきてしまったかのように、 ただ、佐久弥に触れさせる事だけは避けなければいけない。 …否。 自分が、あの女に佐久弥には触れて欲しくないと思っている。 それだけを念頭に置いているのである。 「比奈伎」 「…何だ」 「ありがとう」 うん、と小さく比奈伎は頷く。 「でも」 「え?」 「結局、お前に助けられたな」 「そんな事は無いよ」 相変わらずの、比奈伎の自分の身を盾にするような方法には頷けないが、 普段人前で、一糸纏わぬような無防備さを見せる事のない比奈伎が 自分の前ではあれだけ寛いだ様子を見せるのは、嬉しいような、 その反面…複雑な気持ちはある。 「ありがとう」 「…もう聞いた」 「うん」 …それでも。 ありがとう。 「行こうか」 「うん」 素直にこくりと頷く青年を愛おしく感じながら、佐久弥は歩を進めた。 鬼火の里まで、あと二日ほどの距離だ。 【終わり】


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