+名前+
少し暑いと感じるような日差しが、地面に反射している。
見回せば、辺りの緑は深く濃く色づき、本格的な夏の到来を物語っていた。
陽炎が揺らめいて、少し向こうに広がる景色を
ぼんやりと幻想的なものへ変える。
一族の会合の間でもあり頭領の住むべきところでもある、
里の中でも一際高い位置に立てられたその建物は、
強めの光を受け止めて、目に眩しいような、くっきりとした輪郭を見せる。
石段を登り、その建物の表から周り、草を分け入って進むと
少し奥まった位置に中庭がある。
広く開放的に作られた空間だった。
中庭から直接上がれる状態で廊下が中庭と平行して長く続いており、
襖に隔てられた個室がいくつか、横一列に並んでいる。
この個室は一族の者が好きに使う事が出来るが、その中には
兵法やら薬学やらの小難しい書物や巻物が山のように積み重なっていて、
そこに出入りする人間も限られている部屋もあれば、
誰しもが気軽に出入りし、何かをしていくという
やや雑然とした状態の部屋もあり、
中にはもちろん『決して入ってはいけない』という部屋もある。
以前、一度だけ年少組が悪戯心を起こしてその部屋に
立ち入った事があったのだが、これはまた別の話だ。
ちょうどその突き当りには、更に建物の奥まで続く廊下が、
奥に行くほどにやや薄暗く真っ直ぐに伸びているのが見える。
朱音は、その廊下をちょうど真後ろに続かせる位置に、腰を下ろしていた。
また、目の前でゆらりと陽炎が揺れた。
こんな日は、思いや気持ちが少し曖昧に感じる。
何も考えずに、ただ座っていたい。
同じ空気の中にいるだけで、それだけで良い。
その存在を感じている事が出来るのなら、他には何もいらない。
「俺は、お前さえいれば…それで良いんだ」
「からかうなよ」
「こんな事でからかえるか!」
「それはそうだな」
ふむ、と頷いてから、少し笑って斜めに見上げてみる。
「しかし…ずいぶん強烈な愛の告白だぞ。それはお前が好いた女子に
言ってやらないと。でなければ、私が恨まれる」
「茶化すなよ朱音!!」
今は、誰も呼ばなくなったその名前。
ただ一人を除いては―――
「俺は…俺は」
真っ赤な顔をして不器用にも懸命に言葉を綴るのは。
目の前の、かつては自分よりも小さかった少年。
今ではわずかに見上げないと、視線が合わなくなってしまった。
唯一、未だに名を呼び捨てる事を許される存在。
「そんな顔をするなよ、比奈伎」
「あか―――」
皆まで言わせず、朱音は比奈伎の後頭部へ手を伸ばし、
そのまま顔を引き寄せる。
縁側に腰かけた自分に覆いかぶさるような態勢にさせ、
自分のすぐ斜め上に比奈伎を導く。
ちょうど中庭に差し込んだ光が、比奈伎の背中で遮られた。
比奈伎は引き寄せられるまま、だがそのまま倒れこまぬように
朱音の両脇に、それぞれ両手を付いて身体を支える。
互いの息が交じり合うほどの近距離に、その目を見れば。
似通った深い闇色に、互いの顔が写っているのがわかった。
他の者がそんな真似をすれば、すぐさま振り払うだろう比奈伎は、
視線をそらすことなく、大人しく、されるがままになっている。
ほんの少し。
ほんの少しだけ、困ったような表情で。
それは。
何もかもを、自分に預けている人間の眼だ。
決して疑わず、自らの全てを私に差し出している存在。
整った眉目も。
きゅっと結ばれた唇も。
その美しい蒼い瞳も。
髪も、腕も、身体も、命も、―――運命すらも。
その愛おしさと無防備さに、朱音は、もう一度くすり、と微笑った。
「…ヒナ」
一度囁くと、まるで啄ばむように比奈伎のそれに口付けた。
「……」
もう一度真正面から見やっても、比奈伎の表情はまるで変わらない。
…どうやら、固まっているようだった。
思わず噴出して、もう一度同じことを繰り返してやる。
二度、三度と繰り返し、そのまま四度目を繰り返そうとした瞬間、
わあ、とか何とか、およそ副頭領らしくない
なんとも情けない悲鳴を上げて、比奈伎が思い切り後ずさった。
次の瞬間、比奈伎の頬がみるみるうちに朱に染まる。
耳からうなじまでをも見事な紅に染め上げて、
比奈伎は両手で自分の口元を覆い隠した。
堪らず、朱音は声を上げて笑ってしまう。
「比奈伎…すごい反応だな」
「…う…っ」
「う?」
「うるさい…っ」
ごくごく小さな声で呟くのが、辛うじて耳に届く。
「あ、朱音が…っ、いきなり…んな事をするからだろう…ッ」
…どうしてどうして。
果たしてこれが、数々の戦場を経験し、死線をくぐり抜けた、
二十歳を越えた青年男児の反応だろうか。
見ているこちらが恥ずかしくなるくらいに頬を染めて、
思い切り動揺してうろたえまくっている。
純情…否、純朴だな、と声に出さずに呟いた。
こと恋愛関係などについては、年下の夜紫乃辺りの方が
余程大人びていて、心得てもいる。
比奈伎は、そういった感情に対する自らの欲求も希薄で、
自分から何かを強く望むという事はほとんどない。
自らの望みそのものすら、この私の物だと言うのか。
「か、からかうなよ…っ」
「心外だな。それこそ、こんな事でからかえるか」
真面目な顔で言ったのに、むぅ、と眉根を寄せられてしまった。
「口がへの字だぞ、ヒナ」
「うるさいっ」
もう一度笑いながら、朱音は縁側からするりと立ち上がって
比奈伎に近づき、手を伸ばす。
頬を染め、不機嫌そうな顔をしつつも比奈伎はそれを払う事はせず、
大人しく髪を撫でられるままになっていた。
本当は知っている。
比奈伎が望む事はそんな事じゃない。
例えば、そう。
望みは、朱音と身体を重ねる事なんかじゃない。
そんなつながりは必要ない。
だがそれと、無関心とは違う。
望みは、傍にいること。
傍に存在する事。
それも、肉体は離れていても良いのだ。
ただ、心があれば良い。
どこまでも純粋だからこそ。
神聖な真実の想い。
「比奈伎」
呼ぶだけで良い。
そうすればきっと、確かなものになるから。
確かな思いになるから。
今日も、明日も、ずっとずっと、その先も。
「ヒナ。…名を、呼んでくれ」
「?」
お前が、その全てを懸けた存在を表す言葉。
―――私の、名を。
一瞬だけ戸惑ったような顔を見せて、それでも比奈伎はそれを口に乗せた。
「…朱音」
…ああ。
それを聴きたくて、私はここに存在る。
おわり。
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