+微笑+
……捕らえられた。
駄目だ、逃れる事は出来ない。
力も、技も、何もかも違いすぎる。
今の、自分では―――
―――子どもか
後ろ手につかまれた手首は、びくりともしない。
―――大した実力だ、こんな童子が
―――何人殺られた?
歯を食いしばって振り解こうとするが、それを許されない。
―――面を外せ
―――これは…随分と、良い器量だな
―――本当におのこか?
いま自分に出来るのは、ありったけの強さで睨み返し、
その視線を逸らさずにいる事だけ。
―――それに、大した度胸だ。こんな状況でもなお闘志を失わないか
―――いつまで、もつかな
じっとりと汗ばみ、ごつごつと節くれだった手に掴まれた腕は
無理な方向へねじ上げられて、みしり、と悲鳴を上げる。
思わず漏れそうになる悲鳴を、無理矢理喉の奥へと封じ込めた。
―――脱がせろ
…その男たちが、殺気を捨て、代わりにその身にまとった物は。
―――何だお前、初めてか?
喉の奥で響く、下卑た嫌な笑いが耳から離れない―――
「…比奈伎」
「―――!」
暗がりからそっと呼ばれて、比奈伎の全身から力が抜けた。
重たい身体をどうにか起こし、大きく息を吐き出すと、
背中が汗に濡れてぐっしょりと冷たい。
妙に右腕が強張っているのが分かる。
それに違和感を感じ、ふとそちらを見れば、無意識のうちに刀を握っていた。
握り締めているその拳は、色を失うくらいに力が入っている。
震えの収まらない右腕にどうにか言う事を聞かせ、
比奈伎はその刀を静かに元に戻した。
隣り合わせに敷かれた布団の中で、起き出す気配を感じる。
そこに寝ていたはずの佐久弥が、そっとこちらへ近寄るのが分かった。
「大丈夫?」
「…ああ…悪い、起こしたな」
極力、なんでもないふりを装うが、知らず語尾が震えてしまっている。
佐久弥もそれに気がついたのだろう、寝床に戻ろうとはせずに、
比奈伎の顔をそっと覗き込んだ。
「良いよ、大丈夫。…顔色が悪いよ」
「…何でも無い。嫌な夢を見ただけだ」
思い出したくも無い。
夢でありながら、過去の自分には決して夢ではなかった、
だからこそ記憶の奥底に封じたはずの―――
「比奈伎?」
「触るな」
目の前に差し出された白い腕を思わず払うと、
佐久弥は少し驚いたような顔を見せたが
すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「すごい汗だよ」
荒れる呼吸を無理矢理落ち着かせて、比奈伎は、
どうにか言葉を吐き出した。
「……良いから、触るな」
…今は。
今は駄目だ。
今触れられたら―――絶対に傷つけてしまう。
それが誰であろうとも。
今夜のように、月のぼんやりした夜は良くない。
早く頭を冷やさなくては。
早く。
早く。
単衣のまま裸足で外へ出れば、地面は
触れた肌に痛みを訴えるほどに冷え切っている。
比奈伎は、そのまま里を少し下った所にある沢に向かい、
覚束ない足取りで淵まで向かう。
目の前に音も無く広がった水面をただ見つめていると、
それだけで急に周りの温度が下がった気がした。
吐く息が白い。
良く見ると、沢の水には、うっすらと氷が張っているのがわかる。
このまま、この冷たい水に吸い込まれようか―――
ぼんやりと考えながら、ふらり、と水面に倒れこんだ、
その瞬間。
比奈伎は、後ろから手首をつかまれた。
「―――触るなッ!!」
一瞬頭の中が白くなって、思い切りその腕を振り払った。
ばしんと音がして、つかんだ腕を強く払った事を知る。
だが、身体中に駆け巡る自分の心音と呼吸音で、全てがかき消された。
途端に、低くくぐもった笑いと、汗ばんだあの掌が脳裏に強く思い出される。
一瞬で、あの夜に記憶が遡った。
仕事でみなと共に里を離れ。
あとで合流するはずの地点に一人遅れを取り。
その時、敵に見つかって―――
「あ…あ!」
当時は、まだ十かそこらの、未熟な技しか持たない自分。
忍にも及ばない、そんな相手だったのに、不覚を取って捕らえられた。
数人の男たちに取り囲まれた時、最後まで生き残るための算段を
必死に頭の中で思い浮かべ、それが敵わなければ殺されるのだ、と、
そう覚悟もした。
だが。
身動き出来ないほどに強く二の腕を拘束されて、
比奈伎はそのまま、地べたへとうつ伏せに叩きつけられた。
纏っていた防具も着物も、全て剥ぎ取られ
足首を掴まれ、それを大きく広げられて―――
「…! や…」
武器による傷みでも毒による苦しみでもなく。
痛みと羞恥と何よりも未知の物に対する恐怖と。
「いやだ…ッ、嫌だ…嫌だ!!」
―――武器は。
武器は、何処だ。
殺さなければ。
殺さなければ。
刀を―――
「比奈伎!」
「!」
無我夢中で刀を求めて振り回した比奈伎の利き腕を、
誰かが優しく、だがしっかりと押さえつけた。
だが拘束された事で、余計に当時の記憶が舞い戻る。
心が、痛みに悲鳴を上げる。
それは、あの夜の痛みをも思い起こさせた。
その痛みは身体を引き裂かれるほど強く恐ろしく。
節くれだった大きな手が、食い込むほどに手首を締め付ける。
意に反して足を大きく開かされて、
比奈伎の小さな背中に、そのまま男が覆いかぶさる。
後ろからいきなり身体を貫かれ、比奈伎は悲鳴を上げた。
痛みで呼吸もままならない。
酸素を求めて身体を捩れば、それこそ呼吸が止まるほどの痛みに襲われた。
何度も。
何度も。
その幼い身体に見合わぬ楔を打ちつける男たちの、下卑た笑いが
頭の中で警鐘のように鳴り響いている。
…何故。
何故。あの時死ねなかったのか。
いっそ命を奪われた方が良かった。
機密を探るための拷問ですらなく。
ただ、戦で猛った欲望を、解消するためだけの―――
そうだ。
どうして自分は…今でも生き恥を晒しているのだろう。
何故生きて戻ってしまったのだろう。
ぼろぼろの態で戻った自分を、みなは何も言わずに迎え入れたけれど。
何故、生きて戻れて良かったなどと思えるだろう。
男でありながら。
同じ男に、力敵わず陵辱を受けたこの恥辱を…
どうして晴らせるなどと思えたのだろう。
…死ならば。
死ならば、一時の痛みで終われたはずなのに。
そこまで考えた時、比奈伎の手に、何かが触れた。
その人工的な冷たさは、鋭利な―――
比奈伎は迷いも無く、それを己の身体へと突き立てる。
否、突き立てた、はずだった。
自分へと突き立てたはずの小刀は、確かな手ごたえを返して―――。
「…比奈伎。大丈夫だから」
そっと囁かれたその静かな声音は、どんな喧騒の中でも耳に届く。
「…あ…」
ようやく、比奈伎の視界に色が戻ってきた。
頭の中で響き続けていた低い笑いが遠ざかっていく。
小刀を握り締めていた左手から、ようやく力が抜けた。
そしてその小さな懐剣に見覚えがある、という事に気がつく。
目の前に静かに差し出された白い腕。
その、白い腕に、深く突き立っているのは―――
差し出されたその腕に、その腕の主に、今度は夢中でしがみついた。
その腕はそっと背中をさすり、そして抱きしめてくれる。
ようやく、呼吸をしている感覚が戻ってきた。
「大丈夫だよ。大丈夫」
「……ッ」
「大丈夫だよ、比奈伎。私がいるから」
「……。佐久…弥…」
月明かりに、眩しいほどの存在がそこにいた。
腕に小刀をうずめたままそれを抜こうとはせず、
流れ出る紅の血もそのままに、強く比奈伎を抱きしめ返す。
「…うん。ここに、いるよ」
細くたおやかに見えるその腕は、しっかりと比奈伎を抱きしめている。
それは、かつて幼い比奈伎を拘束した強さではない。
無理矢理押さえつけようとするものではない。
限りない優しさと暖かさを込めた強さ。
佐久弥のその強さに、比奈伎はしっかりと抱きしめられていた。
まるですがるように、自分よりも細いその身体に腕を回す。
何度も呼吸を繰り返して、ようやく、声を絞り出した。
「…佐久弥…」
「うん」
「…佐久弥」
「うん」
「佐久…」
ただ、優しく頷きを繰り返すその相手に。
自分よりも低い位置にある肩に深くうずめたまま
比奈伎は顔を上げることが出来なかった。
あの夜も決して泣いたりはしなかった。
里に戻っても誰にも言えず、一人で耐えた。
「大丈夫だよ、比奈伎…」
何度も何度も根気良く、背を撫でる優しい掌が温かくて。
食いしばった歯の隙間から零れ落ちる嗚咽を、
押し殺す事が出来なかった。
もう、溢れる涙を隠す事が、出来なかった。
自分よりも一回り細いその身体に自らの身体を預けるようにして、
比奈伎は肩を震わせた。
…ただ、静かに泣いた。
「―――眠ったか?」
「うん」
やがて、ぐったりとそのまま意識を失った比奈伎を
佐久弥が背負って寝床に戻ると、そこには一人の女が立っていた。
「すまなかったな」
「私は大丈夫だよ」
「そうか。腕は?」
「大した怪我じゃあない」
その影は、大きく息を吐くと、佐久弥を手伝い、
比奈伎を布団に横たわらせる。
そして、もう血は止まっているその腕の傷の手当てを手伝った。
手当てが済むと、静かに寝息を立てている比奈伎の頬にそっと触れ、
その涙の後を拭うようにして、小さく口付けた。
枕元に座り、比奈伎の髪の毛を優しく梳きながら小さく呟く。
「あれから、三年だ」
「うん」
「ようやく、三年経った」
「うん。…長かったね」
「やつらは、まだ、生き延びている」
「そうみたいだね」
やつら―――三年前、比奈伎を陵辱した者たちは、
今なおその命を生き永らえさせている。
朱音は、三年間、待ち続けた。
本当なら、すぐにも実行したかった。
だか出来なかった。
実行するには情報も足りず力も足りず、何よりも主の許しなく、
私怨にての戦いは掟で禁じられていたからだ。
だから、この三年間必死に訴え続けた。
ただ一つきり。
生涯、ただ一度きり。
心から、滅ぼそうと思った相手がいる事を。
御簾の向こうの主は、困ったように苦笑をこぼすと、
ただ一言『三年間は動くな』と朱音に命じた。
当時、主の情勢は穏やかとは言えなかった。
だからこそ、私怨で一族の面々を失うような、
万一の事があってはならなかったからだ。
…だが。
今夜で、その三年が経った。
情勢も、落ち着きを見せ始めている。
何よりも、もう、これ以上待つことは不可能に近い―――
「それで? どう動くの?」
「…お前が考えている通りだ」
「でも、あれはもう三年も前の事だよ」
「そんな事を言って―――お前は許せるのか? 佐久弥」
闇色の中に燃え盛る炎のような激情を秘めた
その視線を真っ直ぐに受け止め、佐久弥は静かに微笑んだ。
「まさか」
見惚れるような優しさの微笑だった。
男でも女でも。
足を止め、振り返らずにはいられないだろう。
そんな、優しさと慈愛に満ちた、柔らかく美しいとさえ思える微笑。
女はその微笑に同じく、こちらは幾分か猛々しい微笑みを返し、
音を立てずに立ち上がると、もう一度正面から佐久弥を見つめる。
「本当なら、私が出向きたい所だが、
それでは何のために比奈伎が押し隠してきたかわからない」
「だから、私に、やらせてくれるんだよね?」
女は、静かに、だがはっきりと頷いた。
「一人も逃すな」
「もちろん」
その微笑の下には
研ぎ澄まされた刃が隠されている。
終わり。
|