+棘+










「比奈伎!」


比奈伎は、肩に矢を受けた。
だが顔色一つ変える事はなく、
片手でその矢を叩き折って、むりやり鏃を引き抜く。


「!」
「―――どうかした?」
「…いや、今は足を止めるわけには行かない。急げ」


二つに折られて投げ捨てられたそれは、
鏃とは呼べないくらいの、小さな小さな石が先についているだけの
粗末な弓矢だった。

でも、一瞬おかしいな、と感じた。
嫌な予感と呼べるものだったのかもしれない。


弓矢を叩き折った瞬間の比奈伎の様子が、
捨てられたその折れた矢が、妙に気になって仕方なかった―――。







それに気がついたのは、それからわずかばかりの時も経たないうちだった。
ありえない事に、比奈伎が突然、その場に膝を着いたんだ。


みんなびっくりして、比奈伎に駆け寄る。
駆け寄って、更に驚いた。


表情そのものは、いつもとほとんど変わらない。
変わらないけれど、その顔色は―――
額に、びっしょりと脂汗までかいている。
気のせいじゃない、呼吸もかなり荒い。


「良いから、先へ行け―――」
「比奈伎!」


苦しい息の下から、何でもないから、と差し伸べた手を
煩そうに払いながら、比奈伎は立ち上がった
―――否、立ち上がろうとして、失敗した。


再びその場に膝を着いた比奈伎に駆け寄り、
いつもはその動きに音を立てない佐久弥が、ぐい、と思い切り
比奈伎の襟をつかみ上げる。


その仕草に、比奈伎が一瞬身体を竦めた。
その瞬間、佐久弥は思い切りその襟元を押し広げる。


「!っ」
「あっ!」


思わず声を上げてしまった。


向かって右側、比奈伎の左肩の付け根が、どす黒いとしか言いようのない
嫌な色に染まっているのがここからでも分かる。


見た目以上に真っ白い肌が、…毒に冒され、ひどく腫れ上がっているのだ。


知らず、喉元まで競り上がった悲鳴を夢中でかみ殺した。


左肩の付け根。
それは、比奈伎の利き腕の―――







佐久弥が襟元を開く、そのほんのわずかな動作ですら
比奈伎のその秀麗な眉が寄せられるのを見てしまった。
抉られるような痛みですら表情を変えることのないあの比奈伎が。

そう思うと、比奈伎の身体に現在侵食しているその毒が
いったいどれ程のものなのか、考えるだけでぞっとする。


「佐久弥っ」
「…うん」


毒に対しての知識は、僕自身はあまり持っていない。
何をすべきなのか、誰かに指示をあおぐよりほか無かった。
それが、ひどくもどかしい。


「夜紫乃は、奇麗な水をたくさん汲んで来て。寿々加はそれを手伝って。
 千波流、荷の中から奇麗な布をたくさん用意して。それから―――」


てきぱきと指示を出していく佐久弥に、みんなはただ黙って従うしかない。


「各務がいてくれれば」
「今はそれを言っても始まらん。俺たちで出来る事をするしかない」
「鏃に毒が仕込まれていたのではなく、矢を折って引き抜く事で、
 矢の本体そのものに仕組まれた毒が流れ出す仕組みだったんだな」
「そんな技、聞いたこと無いよ」
「忍かもしれない」


僕ら一族にとっては、最大の敵とも言える『忍』の集団が、
この戦に関わっているかもしれない、その事にも焦燥感を覚えた。


「佐久弥、薬草を探す?」
「そうしたいけど、残念ながら私では、この毒の配分が分からない。
 今までに見たことの無い物らしい。
 だから、どの薬草が効くのか、見当もつかないんだ」


言いながら、手早く腕や肩にかけて、止血していく。
ぎりぎりと音を立てるほど目一杯布を縛り上げる。
血が止まるほどにきつく止血しなければ、毒が血に乗って回ってしまうからだ。
あらかた止血し終えると、佐久弥は酒で小刀を濡らし、比奈伎の肩に当てる。


自身も酒で一度口を濯ぎ、今度は口に含んだそれを比奈伎の肩に吹きかけた。
そして、さくり、と小刀を比奈伎の肩に埋める。
比奈伎はわずかに眉を動かしただけで、その動きをただ見つめていた。

肩から勢い良く血が流れ出す。
そうして血と一緒に、少しでも毒を抜かなければならなかった。


「我慢してね」
「う!」


小刀を脇へ置き、低く比奈伎を制するが否や、
佐久弥は有無を言わせずその比奈伎の肌に唇を寄せ、強く毒を吸い上げる。


地面に吐き出すと、それは比奈伎の血に混じり、
更に毒を含んで嫌な色に染まっていた。


「どうだ?」
「うん」


寿々加の問いかけにわずかに首を縦に振ると、佐久弥は更に毒を吸い上げる。
比奈伎の右腕が、弱弱しくそれを制した。


「比奈伎。もう少し、我慢して」
「もう良い…」
「良くはないよ」


ぴしゃりと、些か冷たいとも思える声音で、佐久弥が比奈伎の言葉を遮る。


「いくら即効性のない毒とは言っても、それは私たちだから、であって、
 どう考えても放って置いて良い種類の物じゃあない。
 比奈伎はこんな所で命を捨てる気なの?
 良いから、寿々加、腕を押さえてて」
「お、おう」


初めて見るような佐久弥の静かな激しさに、
些か押され気味で寿々加が指示に従った。
傷に触れないよう細心の注意を払い、
背後から抱きかかえるようにして右腕を押さえ込む。

それを確認した佐久弥は、再び作業を開始した。


「あ、ぁ、佐久弥…ッ!」


佐久弥が強く吸い上げるたびに比奈伎は身体を強張らせて切ない悲鳴を上げる。
そして、耐え難い痛みに抗うかのように強く歯を食いしばる。
その際に自分で舌を傷つけないように、呼吸を求めて比奈伎が口を開いた瞬間、
それまで比奈伎の足元を押さえつけていた千波流が、素早く布をかませた。


「ん、んッ」


くぐもった声がその合間を縫って零れ落ちる。
それと同時に、眦に溜まった涙が頬を伝った。


想像を上回る痛みで、自制が飛んでしまっているのだろう。
いつもの比奈伎からは考えられない。











こんな時だというのに。


僕は、その姿に欲情した。













「伊織は?」
「お頭に知らせに走った」
「そう」
「直に、各務が来る。そうすれば」
「そうだね」


佐久弥の口調は、表向きはいつもと変わらない穏やかで優しいものだ。
だが、僕には分かってしまった。
佐久弥のその静かな眼差しの中に潜む、底知れぬ怒りに。


佐久弥は、怒りを抱いている。
静かな静かな、激しい怒りを。















比奈伎の身体で暴れている毒は、死に至るものではなかったらしい。
というよりも、僕たちには効かなかった、というべきなんだろう。

きっと普通の里人だったら死んでいたに違いないんだ。



それでも、それは比奈伎の中で暴れ続けた。





比奈伎は、僕を庇って矢に撃たれた。

…否、正確にはそうじゃない。庇った相手は僕じゃない。



比奈伎は、間接的に佐久弥を庇ったんだ。



あの毒矢は、僕を狙ったものだった。
というよりも、たまたま標的となる的の中に、僕がいたんだろう。
迂闊なことに、僕はその矢の存在に気づく事ができなかった。

僕が避けられない事に気づいたのは、多分、佐久弥の方が先だったんだろう。
自惚れでもなんでもなく、
佐久弥は、それだけ僕の事を見ていてくれているから。


それなのに、僕を庇ったのは佐久弥ではなく、比奈伎だった。


比奈伎は分かっていた。
佐久弥が、僕を庇い、毒を受けようとするだろうという事を。
だから、比奈伎は僕を庇ったんだ。

佐久弥に、毒の苦しみを味あわせないために。


そして。


佐久弥も気がついた。
間接的に、自分が庇われる結果になった事に。



だから、怒りを抱いていた。




他の誰でもない。
佐久弥自身に―――。











そっと洞穴の中を窺うと、その奥に比奈伎が横たわっているのが分かる。
佐久弥は、せめてもの足しになればと、
千波流を連れ立って薬草を探しに出かけた。

伊織がお頭に知らせ、各務と一緒に戻ってくるまで、
その場しのぎでも何とか良い治療法を見つけたい。
各務が来ればきっと大丈夫、だからそれまでは。
きっと各務なら、この毒に効くだろう薬草を知っているに違いないのだから。



する事がないので、寿々加は澤へ行き、水を汲んだり、
比奈伎の血で汚れた布を洗濯したりしている。
僕は、念のためという事で、洞穴の見張り役を買って出た。


もう一度、洞穴を覗き込んで、僕は思わず飛び上がった。


「比奈伎っ!? 何してんの!?」


毒に冒されているはずの比奈伎が、
ふらりと立ち上がって、戦支度を整えようとしていたのだ。
篭手を巻きつけようとするが、手元が震えるらしく、何度も取り落とした。


「ちょ…っ、まだ駄目だよ、起き上がったりしたら!!」


手に触れた素肌が、ありえないくらい熱い。
色を失った顔色も、脂汗も、呼吸も、
さっきよりもずっとひどくなっている気がした。


「比奈伎!!」


今動いたら―――死んでしまうかもしれない。
そんな事は、そんな事にだけは。


もう、それだけを必死で考えて、無理矢理
比奈伎を押さえつけて横たわらせようと試みる。

比奈伎も最初は何となく抵抗を続けていたが、やがて体力が尽きたのだろう、
諦めたように腕を下ろし、身体から力を抜いた。

そのまま僕の身体に倒れ込むようにして、意識をなくした。
ほっとして、握り締めた比奈伎の手首をそっと離す。


「比奈伎?」


そっと話しかけてみても、
苦しそうな荒い呼吸を繰り返すだけで、応える様子はない。

僕の肩に顔を埋めるようにしているので、
視線を少し下ろすと比奈伎の白い項が見える。
止血のために上半身は着物を下ろしているので、素肌が触れる。
無駄なく鍛えられた身体は、
比奈伎自身の持つ雰囲気よりもずっと細いと分かる。

力を失った比奈伎の身体を支えるために、その細い腰へ腕を回した。



耳元に、その呼吸音だけが響く。



傷に負担にならないよう、そっと横たえて
しばらくすると、ふと、比奈伎が瞼を動かした。


「…比奈伎、水、飲む?」


熱で潤んだ闇色の眼差しが、何か言いたげにわずかに動かされる。
僕は、傍に用意された竹筒から、水を自分の口に含んだ―――。

















「様子は、どうえ?」
「少し、落ち着いてきたみたい」
「そうか」


伊織の俊足により、思ったよりも短時間に事の経過はお頭に伝わり、
電光石火で各務を引き連れて伊織が戻ってきた時には、
佐久弥までもが、目に見えて安堵した。


そのあとは、各務による指示で僕らはあちこちを駆け回り、
必要な薬草をそろえたり、水汲みやら洗濯やら、目の回る忙しさで働かされて、
気づいたら、比奈伎の呼吸が、かなり楽そうになっていた。


念のため、と様子を見に戻った各務に聞かれて、
もう一度比奈伎の様子を窺うけれど、明らかに当初よりも顔色が良い。


そんな比奈伎の様子に、各務もそっと息をついて、優しく声をかけた。


「もうすぐ、お頭も着くからね」
「…今は、会いたくないな…」


眠っているとばかり思っていた比奈伎の声がして、
びっくりして顔を覗き込むと、ぼんやりと視線を彷徨わせてはいるが、
確実にはっきりした声音でもう一度呟いた。


「何故お頭を呼んだんだ、各務」


問われて各務は、一瞬バツの悪そうな表情をし、
次いでくすくすと袖で笑いを隠す。


「そりゃあ、可愛い比奈伎の一大事だもの」
「余計な事をしてくれる…」


不快気にぎゅっと眉根を寄せると、比奈伎は大きく息をついた。
その傍らに腰を落として、僕はわざとおどけてみせる。


「今回は仕方ないよ、
 佐久弥が血相変えて『お頭を呼んで!!』なんて叫ぶからさ。
 伊織、びっくりして飛び出してったんだよ?」
「…佐久弥が?」
「うん」
「驚いたよ、我らと合流するや否や、
 『比奈伎が死ぬから一緒に来て』などと叫ばれては…
 お頭は目の前の戦を放り出して駆け戻ろうという勢いだしねえ。
 それを何とか押しとどめて、我だけ先にこちらに戻ったのだけれど」
「…だから、それが余計だと言うんだ…」


不貞腐れたように呟いた比奈伎に、各務はくすりと笑いをこぼす。


「確かに、あの毒は比奈伎を死に追いやるところまではいかなかっただろうが…
 それでも、みなと我のおかげで、確実に短い間で治りそうであろ?
 感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いは無いと思うえ」
「……」
「お前が痛みに強く、我慢強い事も知ってはいるが…たまには、心配くらい
 させてくれても罰は当たらないと思うよ。そうであろ、佐久弥」
「そうだよ、比奈伎」







弱った自分を見せたくないのだと、比奈伎は暗に語る。
それに、『朱音にだけは』という言外の思いを感じ取ってしまい、
なんだか複雑な気持ちになってしまった。


これも、自惚れでもなんでもなく。
僕は、誰よりも佐久弥を見ている。

だから、分かってしまった。






佐久弥。


…比奈伎の一番は、朱音さまなんだよ?
それはきっと、一生変わらないんだ。
比奈伎の中で朱音さまの存在は、何者にも変え難い、ただ一つの存在。
朱音さまのためだけに生きて、朱音さまのためだけに死ぬ。
比奈伎にとって、朱音さまはそういう存在なんだ。

比奈伎が佐久弥を庇う結果になったのも、佐久弥が傷ついて、
それを見た朱音さまが悲しむのを見たくないからなんだ。

自分の事は棚に上げているけれど、
比奈伎にとっては、そうする事が朱音さまのためなんだ。


それは、自身の利き腕と引き換えても
決して惜しくないほどの強い想い。


僕ら『戦う者』にとって、利き腕を傷つけるという事が、どれほどの―――






佐久弥。
佐久弥は、それで良いの?
ただ見ているだけで、良いの?




思いを顔に出すつもりは無かったけれど、ふと佐久弥を見やると、
佐久弥は微笑んだ。

まるで、僕の思いを汲み取ったかのように。

それは、奇麗な微笑だった。




良いんだよ。




佐久弥の優しい声音が聞こえた気がして僕は。
僕は、ふいに熱くなった瞼を誤魔化すために、
水を汲んでくる、と言って外へ出た。


強い気配が近づいてくるのが分かった。
もうすぐここに、口ではああ言いながらも、
比奈伎が誰よりも望んでいる人が来る。


胸に、ちくりと痛みが走る。









それは、抜けないままの棘のように、微かな微かな痛みを訴えた。











終わり。


●戻●